この物語はフィクションです

実在の人物、団体とは関係ありません。

今からラバーダックになってください

最近おかしい。

ずっとおなか壊してるし、お米もあまり食べれないし、なによりプログラムが書けない。いつもの三倍時間がかかる。

死にたいと思うことが増えた。

前みたいに運が悪ければ死ぬようなことはしないけど、どうすれば楽に死ねるのか検索する時間が増えた。手すりに足かけようとはまだ思わないし、ODする薬もない。病院に行くとODする薬が出てしまうし、どうせ薬を飲めば頭の回転が鈍る。

寛解ってなんだ。今の私は寛解しているのか、勤続二年になったのは寛解したからか、それとも環境に恵まれたからか。

最近怒りっぽい。すぐに人を詰めてる気がする。すぐに人を詰めてるから人からもすぐに詰められるんじゃないかとずっとおびえている。詰められないと裏で悪口言われてるんだろうなと思う。馬鹿にされてるんだろうなとか。どうせ嫌いだろうなとか。

昔はなんだか嫌なことがあっても全然気にしなかった気がする。気にしてたのは忘れものとか怒られることとか。人に嫌われることなんて気にしてなかった。たぶん自分に自信があったから。自分は特別な存在だと信じていたし。

いまはどうだろうな。特別な存在かと言われればそうでもない気がする。周りに比べて劣っているかといえばそうではないけれど、無価値な人が多いのだろうなとは思っている。自分がその無価値の中に入りつつあることも。子をなしている人は価値があると思う。人に感謝される人も価値があると思う。愛されている人や美しい人や賢い人も。少なくとも死んだときに誰かが悲しんでくれるのであれば、価値はあるんだろうと思う。自分はそうではないと思うから、昔は何で特別な存在と思えていたかが思い出せない。

口ではほめてくれたり、あなたがいなくなったら悲しいという人はいるけれど、本当にそうだと信じることができない。わたしは誰かに死んでほしくないと思ってほしいのに、誰の言葉も信じることができない。誰かの死なないでほしいという言葉を信じることができれば、多分昔みたいに自分を高く保てるのに、そんなことはもうできなくなってしまった。批判の言葉だけが本当で、賞賛の言葉は嘘にしか思えない。自分が自信を持っている分野でさえ賞賛されても嘘だと思っている。しかし、得意と思っている分野において、周りは自分より劣っていると思うことは多々あるので苦しい以外の何物でもない。何の役にも立っていない。

なんで誰の言葉も信じられなくなったかは思い出せない。何かの歯車が狂った時期は中学三年生のころだろうとは思う。なんとなく、疑心暗鬼になっていた記憶がある。しかし何の苦労も挫折もした思い出がないので、何がきっかけだったかわからない。良くも悪くも、何も楽しくなかったことだけを覚えている。

そこからおかしい。そのあとは初めてできた彼氏とよく遊んでいたけれど、情緒の不安定さはすでに折り紙付きだった。しかしながらこの時点ではまだある程度自分を高く保っていた。若さゆえのような気もする。自分を高く保っていると、ある程度のうっとうしい出来事を回避することができる。年上の尊敬するお姉さんに、うざい人に対してそういう風に対処すればいいんだねと言われた記憶や、誰だかに見下されている感じがするといわれた記憶があるし、とくに疲れている人の話は話半分にしたほうが良いといわれたときはすでにそのようにしているのになぜ今更?と思った。そもそも他人をあまり尊敬していなかった。しかし尊重はしていたので、むしろコミュニケーションとしてはうまくできていたように思う。

ここからは予想だけれども、私は自分のことを重度のマザコンだと思っている。中学3年から高校卒業までの間に自分と他人を明確に切り分けるような(そして信用すべきは自分のみと思うような)出来事があったのではないだろうか。おそらく母親との何かしらのトラブルがあって、その結果、他人をあまり受け入れずに自分を構成するべきとおもったのではないだろうか。母は情緒不安定な人だったから、きっと何かしら強い否定か拒絶をされたんだと思う。そして自分の情緒の不安定さを書籍等で貪欲に探究し、自己に投影した結果、解決方法が見つからなかったので(もしくはその過程で自殺が解決方法との考えに至り)、死にたいの感情が生まれてきたのではないだろうか。

この過程が正しいのであれば、ここ数日頻繁に起こる「疲れた、つらい、死にたい」を解決するためにどうするのがいいのだろうか。

自分と他人の違いを分けるのが下手なのが根本原因のような気がする。が、答えが見つからない。ひとまず、自分と他人を今からでも正しく認識することと、「今」の辛さの解決方法が見つからなかったときに死にたいと思う仕組みが自分の中にできていることを自覚していれば、当面の間救急車にお世話になることはなさそうな気がする。