この物語はフィクションです

実在の人物、団体とは関係ありません。

私の人生は私が責任持ってあげる

炭酸リチウムだけ十分に用意して、昔自分が書いた文章を読み直して、酒もタバコもせずに静かに過ごそうと思う。

私はトライアンドエラーが出来る女なので、前回の失敗がどのラインでどれくらい惜しかったのか考えることができるし、なんなら前回も中程度までいってたようなので、もう少し攻めてれば死ねたかもしれない。

もう少し頑張るくらいなんてお茶の子さいさいである。任せてくれ。大丈夫だよ。

君が終わりにしたい時に責任を持って終わりにしてあげられるし、そうでないなら今の環境を楽しめば良いし。何にも悩まなくて良いし、長生きも、これから先のことなんてなにも考えなくて良いんだよ。

みんなそれなりにやってるじゃん、ほっといても大丈夫。君がいなくなっても大丈夫。気が向いた時にもう一回昔やったことをすれば良いだけ。ちょっとだけ改良を加えて。後遺症だって別な気にしなくて良いし、どうせ死ぬんだし、死ねなかったらもう一回やれば良いだけ。なにも心配しなくて良い。


そう思ったら大体のことどうでも良くなるね。頭の中静かに過ごそうね。私の人生は私が責任持ってあげるからね。

今からラバーダックになってください

最近おかしい。

ずっとおなか壊してるし、お米もあまり食べれないし、なによりプログラムが書けない。いつもの三倍時間がかかる。

死にたいと思うことが増えた。

前みたいに運が悪ければ死ぬようなことはしないけど、どうすれば楽に死ねるのか検索する時間が増えた。手すりに足かけようとはまだ思わないし、ODする薬もない。病院に行くとODする薬が出てしまうし、どうせ薬を飲めば頭の回転が鈍る。

寛解ってなんだ。今の私は寛解しているのか、勤続二年になったのは寛解したからか、それとも環境に恵まれたからか。

最近怒りっぽい。すぐに人を詰めてる気がする。すぐに人を詰めてるから人からもすぐに詰められるんじゃないかとずっとおびえている。詰められないと裏で悪口言われてるんだろうなと思う。馬鹿にされてるんだろうなとか。どうせ嫌いだろうなとか。

昔はなんだか嫌なことがあっても全然気にしなかった気がする。気にしてたのは忘れものとか怒られることとか。人に嫌われることなんて気にしてなかった。たぶん自分に自信があったから。自分は特別な存在だと信じていたし。

いまはどうだろうな。特別な存在かと言われればそうでもない気がする。周りに比べて劣っているかといえばそうではないけれど、無価値な人が多いのだろうなとは思っている。自分がその無価値の中に入りつつあることも。子をなしている人は価値があると思う。人に感謝される人も価値があると思う。愛されている人や美しい人や賢い人も。少なくとも死んだときに誰かが悲しんでくれるのであれば、価値はあるんだろうと思う。自分はそうではないと思うから、昔は何で特別な存在と思えていたかが思い出せない。

口ではほめてくれたり、あなたがいなくなったら悲しいという人はいるけれど、本当にそうだと信じることができない。わたしは誰かに死んでほしくないと思ってほしいのに、誰の言葉も信じることができない。誰かの死なないでほしいという言葉を信じることができれば、多分昔みたいに自分を高く保てるのに、そんなことはもうできなくなってしまった。批判の言葉だけが本当で、賞賛の言葉は嘘にしか思えない。自分が自信を持っている分野でさえ賞賛されても嘘だと思っている。しかし、得意と思っている分野において、周りは自分より劣っていると思うことは多々あるので苦しい以外の何物でもない。何の役にも立っていない。

なんで誰の言葉も信じられなくなったかは思い出せない。何かの歯車が狂った時期は中学三年生のころだろうとは思う。なんとなく、疑心暗鬼になっていた記憶がある。しかし何の苦労も挫折もした思い出がないので、何がきっかけだったかわからない。良くも悪くも、何も楽しくなかったことだけを覚えている。

そこからおかしい。そのあとは初めてできた彼氏とよく遊んでいたけれど、情緒の不安定さはすでに折り紙付きだった。しかしながらこの時点ではまだある程度自分を高く保っていた。若さゆえのような気もする。自分を高く保っていると、ある程度のうっとうしい出来事を回避することができる。年上の尊敬するお姉さんに、うざい人に対してそういう風に対処すればいいんだねと言われた記憶や、誰だかに見下されている感じがするといわれた記憶があるし、とくに疲れている人の話は話半分にしたほうが良いといわれたときはすでにそのようにしているのになぜ今更?と思った。そもそも他人をあまり尊敬していなかった。しかし尊重はしていたので、むしろコミュニケーションとしてはうまくできていたように思う。

ここからは予想だけれども、私は自分のことを重度のマザコンだと思っている。中学3年から高校卒業までの間に自分と他人を明確に切り分けるような(そして信用すべきは自分のみと思うような)出来事があったのではないだろうか。おそらく母親との何かしらのトラブルがあって、その結果、他人をあまり受け入れずに自分を構成するべきとおもったのではないだろうか。母は情緒不安定な人だったから、きっと何かしら強い否定か拒絶をされたんだと思う。そして自分の情緒の不安定さを書籍等で貪欲に探究し、自己に投影した結果、解決方法が見つからなかったので(もしくはその過程で自殺が解決方法との考えに至り)、死にたいの感情が生まれてきたのではないだろうか。

この過程が正しいのであれば、ここ数日頻繁に起こる「疲れた、つらい、死にたい」を解決するためにどうするのがいいのだろうか。

自分と他人の違いを分けるのが下手なのが根本原因のような気がする。が、答えが見つからない。ひとまず、自分と他人を今からでも正しく認識することと、「今」の辛さの解決方法が見つからなかったときに死にたいと思う仕組みが自分の中にできていることを自覚していれば、当面の間救急車にお世話になることはなさそうな気がする。

所感

いま、一緒に住んでる男がいる。

数年の交際期間とほぼ同じだけの期間、彼とは一緒に住んでいる。

彼とは随分前からセックスレスだ。

多分、彼はそもそもあまり性行為自体を望んでいなくて、交際当初は多少あったソレも今となっては皆無だった。

残念なことに私には性欲があって、相反する彼の欲のなさとはバランスが取れなかった。挙げ句の果てには「自分は相手できないから他所の男に抱かれてきて」くらいのことを言われる始末で、本当にどうしようもなかった。このことを思うたび、ひどく惨めで自分がふしだらなような気持ちになる。

わたしの名誉のために言っておけば、特殊なことを要求しているわけではないつもりだった。ただ月に1度(おわりの方はもっと頻度を落としていたが)そういう機会を設けてもらえないかと懇願はしていた。しかしそれはきっと、私の想像するプレッシャーの域を超えていたのだろうな、とは思う。悪意があるようには見えなかったから、きっとなにかしら抱けない理由があって、彼も苦労していたのだろうと思う。

交際相手以外と身体の関係を持つことには抵抗があった。抵抗があったから、正直嫌だった。というか本当に嫌だった。信じられない。何言ってるんだこの人と思って、多分何回か泣いたと思う。

でももう30歳も手前になって、こんなことで泣いていてもしょうがない。破棄になったとはいえ、一度は結婚を覚悟した相手だし、私のみっともないこの欲と彼の価値観はマッチしているし、迎合するほか私たちに平穏はないと思い、2年かけて己の価値観を変えた。もともと容姿には拘らないタイプだったから、相手を探すのには苦労しなかった。あとは自分の中にある嫌悪感と罪悪感だけを除いて、とりあえず楽しく過ごして、発散して、また元の生活に戻れば良いだけだった。

何度か失敗もした。自分が相手をひどく気に入ってしまうケースと、相手が私に交際を迫ってくるパターンがあった。どっちも幸せな未来なんてないことはわかっていた。少なくとも後者は全て断っていたし、交際に繋がったレアケースもあったが勿論うまくいくはずもなく、私と彼の同居生活はどうにか均衡を保っていた。

今年の2月くらいには、もう罪悪感も嫌悪感もほとんどなかった。性格から向いていないのはわかっていたが、それでも風俗で働くのがベストなのではないかと思うくらいだった。


たまにそんな話を持ち出すと、それは撤回したとか、やっぱり嫌だとか、そんなことを言われることがある。

私が捨ててきた貞操観念とか、倫理とか、大事にしたかったものを2年かけて捨てて君との生活を守るために必死に鈍化させてきたのに、私の記憶には曖昧な君の撤回が罪悪感だけを復活させた。失ったものを回復させるのは無くす期間の倍は必要なんじゃないかと、そう思う。


彼とのことは面白おかしく人によく話す。

大体ウケる。

たまに神妙な顔でそんなに好きなのと、本当にそれで良いのと、幸せなら良いんだけどと、聞かれる。

彼のことを好きか問われたら、分からないけど、彼と過ごす時間は幸せだなと思うことが多い。本当にこれで良いのかなんて、誰にも分からないと思うから、これで良いんだと思う。でもたまに、本当にたまにこんな話誰にもできなくてどうしようもなく押しつぶされそうになることがある。


幸せってなんだろうと思って検索したら、なんだか違うワードで検索されて「寵愛」と出てきた。

強がるなと言われても何も思わないのに、強がってばかりじゃしょうがないと言われたことが頭から離れない。ほんとうにしょうがない。

都合の良い神様

「天使」とか「仏」とか「神様」「女神さま」と人を喩える人がいる

わたしも基本的に無神論者であるが、都合よく神に祈ったり、仏様にナムナムしたりする。

結局のところ、神様なんてものは都合の良い存在でしかない。少なくとも他人を喩える時に「俺にとっては都合が悪いがあの人は神様のような人だ」と言うのを聞いたことがない。十中八九「俺みたいなやつにも親切にしてくれる神様みたいな人」もしくはあんなやつにも〜といった具合だ。

自分の年齢的に、もしくは容姿や能力を鑑みて、自分がこんなに丁寧に、大切に、尊重されて扱われるはずがないとそう思っているから、みんなそんな風にいうのだ。

かくいう私も神様の仲間入りをさせてもらうことが、しばしばある。

色々と拗らせていた頃は「博愛主義だから」なんてくだらないことを言っていたが、本質的にはそうではない。

私が生まれ育った家庭は少し歪であったが、私自身は「清く正しく美しく、個人を尊重すること」を重じて育てられた。個人を尊重するということは、思うにカテゴリ分けした一部としてではなく、ただその人を人間らしく扱うということだと思う。そして良くも悪くも私はそれが嫌でも身についている。子供も大人もマイノリティもマジョリティも貧乏も金持ちも前科持ちも個人として人間として文化的に扱われ、また尊重されるべきであると、心の底から思っている。そのための社会制度だ。

金持ちが偉いわけではないし、貧乏人がかわいそうなわけでもない。マジョリティも粗相をしたらならないし、子供にも選択権がある。さらにいえばマイノリティも人に不快な思いをさせてはならないし、マジョリティは勤勉を怠ることで生じる違和感を他人のせいにしてはならない。それぞれの状況によって、選択肢が限られていたり、難易度が上がったり、補助が必要だったりするかもしれないが、ただそれだけだ。勿論、現実には難しいため所詮理想論であるが、そうあるべきと心底思っている。

ただ、この尊重するか否か、という選択と、愛を持っているかどうか、大切に扱われているかどうかというのは全くもって関係のない事項である。前述の博愛主義ではないと気づいたのは、これに気づいた時だった。

嫌いな人だからと言って無碍に扱ったりはしない。人間が目の前にいるのだから、人として扱うべきだろう。それができない人たちからは、問答無用で距離をおくべきだ。

仮に他人を嫌いになってしまった時に、どんな対処をするかと、いままでを思い返してみた。適当にイーブンか自分が少しプラスになるように処理をして(大きくプラスにすると大抵面倒なことになるし、マイナスにすると自分が引き摺る)、それ以上のマイナスを生まないように距離を取る。私の考えるベストはこれしかない。

イーブンか、少しプラスにすると、時間が経って思い返した時に嫌いじゃなくなることが多い。

私自身はそれで納得がいっているのだが、周りはそうでもない。私をマイナスに引き込む人は、そこで得るはずだったプラスを失っているのだから躍起になって連絡をよこしてきたり、脅してきたり、説教じみたことをし始めたりする。私は神様でもなんでもないので、そんなどうでも良い人のどうでも良い話なんてものは右から左に流す。大抵は半年長くて2年くらいすると落ち着いてくる。そんなもんなら最初から執着するなよといつも思うと同時に暇なんだなと思っている。


とどのつまり、連絡したい人には連絡が来ずともこっちから連絡することが多い。それはもう尊重の外にある行為であるので、わたしから行動を起こすことはそれほど多くはないが、誰それが大阪から来るってなったらなんやかんや毎回連絡してるし、高校の腐れ縁にも思い立った時に連絡している。思えばそれくらいしかないが、それくらいで十分なのだ。私の器はそんなに誰も彼もが入れるほどデカい大浴場ではない。君たちの君たちにとって都合の良い神様は別に平等でも君を特別に思っているわけでもないと言うことを覚えていて欲しい。


p.s. 君たちは人間として文化的な生活をして、相応に幸せに生きて欲しいと願っています

自分の価値を知っているか

あなたは自分自身の価値を知っているだろうか。


給与なんかはわかりやすい例で「この金額を払っても君に働いていてほしい」と提示された一種の価値だ。

しかし注意したいのは、価値と給与額は必ずしも一致しないということだ。あなたの価値がどれだけ高かろうが低かろうが、特定の仕組みの中で表現するには限界がある。

また給与を得ない人は価値がないのかといえばそうではなく、例えば親が子を育てているのだって、子を価値のあるものだと思うからこそ無償で衣食住を提供する。

例えば給与や投資額など、評価軸が具体的であるのは、皆が同じ物差しでその数値を評価できるのが良いところである。しかしながらより自由で正確な表現話するには特定の枠組みを超える抽象的であるのが良いだろう。私が思うには、愛もまた、価値を表すものの一つだろうと思う。


困ったことに愛は目に見えない。

愛が原動力となった行動は、もしかしたら目に見えるかもしれないが、それが愛故なのか打算的な行動なのかは行動者本人にしかわからない。

愛があったって、愛がないように振る舞ってしまうかもしれないし、本人にはその気がないのに愛を感じてしまうこともあるかも知れない。


これから割とめちゃくちゃなことを書く。しかし私はそれが真理であるとも思っている。私がめちゃくちゃな人間なのだから仕方ない。


基本的に何かがないことは、証明することは困難だ。イメージとしては推定無罪と類似しているだろうか。(法学に明るいわけではないので厳密には違うかもしれない)

罪があると証明しない限り、罪はないのである。なにが言いたいかといえば、愛があるという確証がない限り、愛はない。

ではいかにして確証が得られるかといえば、愛があると仮説を立てて、その周りをそれらしい理由で固めていくしかないと思う。

自分が納得できるだけの理由が集まれば、愛はあるし、反するような出来事ばかりが集まれば愛はないのだろうと思う。まあ、白黒はっきりつくものでもないから、どれだけの量であるか、適当に測れば良い。

たくさんの愛を拾える人は素敵だと思う。

実際にどれだけの愛を注がれた方は別に、上記の考えを参照するなら愛を感じる能力が高い人ということだからだ。


私のアンテナは壊れてしまったので、セックスの時間とか私にどれだけの時間を割いているかとか、数値で表現できるようなことばかりに目が向いてしまうし、自分が愛情表現するのも金をかけるとか、くだらない方法ばかりとってしまう。しょうもない。みんなが羨ましい。普通に、フツーのことをできる皆が。


話は戻り、あなたは自分の価値を知っているだろうか。

今までの話は全て私だけの話だ。誰かの評価でしか自分を評価できないどうしようもない自分だけの話だ。生きててなにが楽しいのかわからない。誰彼にも拒絶されながら、クソみたいな賃金で働いて、生きているだけで肯定してくれる人がいる君が本当に妬ましい。

君たちは粗末に扱われるべきじゃない

別れ話というのはいつだって不得意で、なんとなくそんなかんじと適当に済ませられればそうしたい。

別れるに至るにはいくつかの理由があると思うけれど、その別れ話をするにも信頼関係が必要だ。お互いの節目を迎える、大事な話だ。言葉に重みがなくてはならない。相手の言葉にも重みを感じなくてはならない。


今回の別れかたは特に最悪だった。まず明確に別れたい理由がなかった。なかったけど、別れたかった。

小さな理由はたくさんあった。元婚約者との同棲は彼と付き合う前から継続したままだったし、体調を崩したときの対応が自分本位であったこととか、何事も気の持ちよう信者だったこととか、いろいろだ。

もちろん好きなところもたくさんあった。最初は余裕のある大人に見えたし、少なくとも頭は良かった。会話の効率がすこぶる良くて、短期間で仲良くなれた。お出かけ好きな女の子はきっと彼みたいな人と付き合えば飽きることなく過ごせるだろう。あいにく私は家でごろごろするのが好きで、外に出るときは酒を飲みに行くくらいが理想だったけれど。私が一度でも好きと言ったものは覚えてて、何も言わなくても注文してくれるし、他所で遊んでくればかわいい程度に嫉妬もしてくれた。

それなりに好きだったし、大事にされていたように思うけ。しかし、どうにも「ごっこ」感が強くて辛いと感じることもままあった。言葉ではお姫様のように扱っているのに、突然放って置かれたり、いわゆる価値観が違かったのだろうとは思うけれど、このところはせっかくの言葉がセリフみたいにしか聞こえなくなってしまった。

そうして、もう別れよう婚約者と新しい家を借りて私はこの人のためだけに生きようと思っていたのだけど、彼と私には前述の信頼関係がなかった。

かける言葉が何も思いつかなかった。嘘は苦手だから、適当な事実を言わなくてはならなかった。

信頼関係があれば、何もかも本当のことを言えば良かったが(もしくはこの記事を見せても良い)、信じてもらえないというのは辛いところだ。

結局、散々連絡を無視した挙句に「もう関係を続けるのは無理だと思います」とだけメッセージを送った。私なりのサヨナラだった。


二週間後くらいから電話がかかってきた。別れたのになんでかなと不思議に思っていたが、その理由が翌月わかった。


「付き合ってくのは難しいと思う」


彼からメッセージが届いた。その途端合点がいった。彼は別れていないと思っていたのだ。文言が関係が付き合うに置き換わっただけだが、何故だろう。彼の中で踏ん切りが付いたのだろうか。

私がクリスマスや諸々のイベント前に別れておこうと思った気遣いは彼の思いひとつでなくなったのだ。この文章を書いていて、私も彼も酷い独りよがりだなとも思ったが。


別れるのが下手すぎる。前回も失敗している。しかしながら、これらの経験から何を学べば良いのか皆目検討がつかない。もう別れなんて経験しないほうがいいんだろう。