この物語はフィクションです

実在の人物、団体とは関係ありません。

自分の価値を知っているか

あなたは自分自身の価値を知っているだろうか。


給与なんかはわかりやすい例で「この金額を払っても君に働いていてほしい」と提示された一種の価値だ。

しかし注意したいのは、価値と給与額は必ずしも一致しないということだ。あなたの価値がどれだけ高かろうが低かろうが、特定の仕組みの中で表現するには限界がある。

また給与を得ない人は価値がないのかといえばそうではなく、例えば親が子を育てているのだって、子を価値のあるものだと思うからこそ無償で衣食住を提供する。

例えば給与や投資額など、評価軸が具体的であるのは、皆が同じ物差しでその数値を評価できるのが良いところである。しかしながらより自由で正確な表現話するには特定の枠組みを超える抽象的であるのが良いだろう。私が思うには、愛もまた、価値を表すものの一つだろうと思う。


困ったことに愛は目に見えない。

愛が原動力となった行動は、もしかしたら目に見えるかもしれないが、それが愛故なのか打算的な行動なのかは行動者本人にしかわからない。

愛があったって、愛がないように振る舞ってしまうかもしれないし、本人にはその気がないのに愛を感じてしまうこともあるかも知れない。


これから割とめちゃくちゃなことを書く。しかし私はそれが真理であるとも思っている。私がめちゃくちゃな人間なのだから仕方ない。


基本的に何かがないことは、証明することは困難だ。イメージとしては推定無罪と類似しているだろうか。(法学に明るいわけではないので厳密には違うかもしれない)

罪があると証明しない限り、罪はないのである。なにが言いたいかといえば、愛があるという確証がない限り、愛はない。

ではいかにして確証が得られるかといえば、愛があると仮説を立てて、その周りをそれらしい理由で固めていくしかないと思う。

自分が納得できるだけの理由が集まれば、愛はあるし、反するような出来事ばかりが集まれば愛はないのだろうと思う。まあ、白黒はっきりつくものでもないから、どれだけの量であるか、適当に測れば良い。

たくさんの愛を拾える人は素敵だと思う。

実際にどれだけの愛を注がれた方は別に、上記の考えを参照するなら愛を感じる能力が高い人ということだからだ。


私のアンテナは壊れてしまったので、セックスの時間とか私にどれだけの時間を割いているかとか、数値で表現できるようなことばかりに目が向いてしまうし、自分が愛情表現するのも金をかけるとか、くだらない方法ばかりとってしまう。しょうもない。みんなが羨ましい。普通に、フツーのことをできる皆が。


話は戻り、あなたは自分の価値を知っているだろうか。

今までの話は全て私だけの話だ。誰かの評価でしか自分を評価できないどうしようもない自分だけの話だ。生きててなにが楽しいのかわからない。誰彼にも拒絶されながら、クソみたいな賃金で働いて、生きているだけで肯定してくれる人がいる君が本当に妬ましい。