この物語はフィクションです

実在の人物、団体とは関係ありません。

都合の良い神様

「天使」とか「仏」とか「神様」「女神さま」と人を喩える人がいる

わたしも基本的に無神論者であるが、都合よく神に祈ったり、仏様にナムナムしたりする。

結局のところ、神様なんてものは都合の良い存在でしかない。少なくとも他人を喩える時に「俺にとっては都合が悪いがあの人は神様のような人だ」と言うのを聞いたことがない。十中八九「俺みたいなやつにも親切にしてくれる神様みたいな人」もしくはあんなやつにも〜といった具合だ。

自分の年齢的に、もしくは容姿や能力を鑑みて、自分がこんなに丁寧に、大切に、尊重されて扱われるはずがないとそう思っているから、みんなそんな風にいうのだ。

かくいう私も神様の仲間入りをさせてもらうことが、しばしばある。

色々と拗らせていた頃は「博愛主義だから」なんてくだらないことを言っていたが、本質的にはそうではない。

私が生まれ育った家庭は少し歪であったが、私自身は「清く正しく美しく、個人を尊重すること」を重じて育てられた。個人を尊重するということは、思うにカテゴリ分けした一部としてではなく、ただその人を人間らしく扱うということだと思う。そして良くも悪くも私はそれが嫌でも身についている。子供も大人もマイノリティもマジョリティも貧乏も金持ちも前科持ちも個人として人間として文化的に扱われ、また尊重されるべきであると、心の底から思っている。そのための社会制度だ。

金持ちが偉いわけではないし、貧乏人がかわいそうなわけでもない。マジョリティも粗相をしたらならないし、子供にも選択権がある。さらにいえばマイノリティも人に不快な思いをさせてはならないし、マジョリティは勤勉を怠ることで生じる違和感を他人のせいにしてはならない。それぞれの状況によって、選択肢が限られていたり、難易度が上がったり、補助が必要だったりするかもしれないが、ただそれだけだ。勿論、現実には難しいため所詮理想論であるが、そうあるべきと心底思っている。

ただ、この尊重するか否か、という選択と、愛を持っているかどうか、大切に扱われているかどうかというのは全くもって関係のない事項である。前述の博愛主義ではないと気づいたのは、これに気づいた時だった。

嫌いな人だからと言って無碍に扱ったりはしない。人間が目の前にいるのだから、人として扱うべきだろう。それができない人たちからは、問答無用で距離をおくべきだ。

仮に他人を嫌いになってしまった時に、どんな対処をするかと、いままでを思い返してみた。適当にイーブンか自分が少しプラスになるように処理をして(大きくプラスにすると大抵面倒なことになるし、マイナスにすると自分が引き摺る)、それ以上のマイナスを生まないように距離を取る。私の考えるベストはこれしかない。

イーブンか、少しプラスにすると、時間が経って思い返した時に嫌いじゃなくなることが多い。

私自身はそれで納得がいっているのだが、周りはそうでもない。私をマイナスに引き込む人は、そこで得るはずだったプラスを失っているのだから躍起になって連絡をよこしてきたり、脅してきたり、説教じみたことをし始めたりする。私は神様でもなんでもないので、そんなどうでも良い人のどうでも良い話なんてものは右から左に流す。大抵は半年長くて2年くらいすると落ち着いてくる。そんなもんなら最初から執着するなよといつも思うと同時に暇なんだなと思っている。


とどのつまり、連絡したい人には連絡が来ずともこっちから連絡することが多い。それはもう尊重の外にある行為であるので、わたしから行動を起こすことはそれほど多くはないが、誰それが大阪から来るってなったらなんやかんや毎回連絡してるし、高校の腐れ縁にも思い立った時に連絡している。思えばそれくらいしかないが、それくらいで十分なのだ。私の器はそんなに誰も彼もが入れるほどデカい大浴場ではない。君たちの君たちにとって都合の良い神様は別に平等でも君を特別に思っているわけでもないと言うことを覚えていて欲しい。


p.s. 君たちは人間として文化的な生活をして、相応に幸せに生きて欲しいと願っています