この物語はフィクションです

実在の人物、団体とは関係ありません。

個人の発信ツールが使いこなせない

個人が作品を展示したりや自己表現ができる場所が増えてきたように思う。youtube然り、ツイッター然り。いいことだと感じる反面、使いこなせない、度胸がない自分にがっかりしたりもする。

 

わたしは先日この世界が本当に嫌になってしまった。

嫌になっていやになって、自分の中にあるいろんなことを形にしたいと思った。世界に絶望した私は自己を保てなくなり、自身で生命を維持することが危うくなったため、入院することになったが、たくさんの管が繋がれた状態の病床では書きかけていた小説の続きもすらすらと思いついた。うまく書けなかった絵の構図も思い浮かんでは消え、思い浮かんでは消えた。

入院中は、脳内が忙しくて仕方がなかった。

わたしの居た病棟は、いわゆる集中治療室で、自身の衣服すら持ち込めないほどだった。病棟にいる間は何の情報も入ってこない。面会もほとんど謝絶状態だ。毎日数回聞かれる自分の名前と共に口にする今日の日付だけが、私が手に入れることのできる情報だった。

看護師さんは何もないこの空間を「地獄のように感じるでしょう」といった。

しかし、私にとっては天国だった。ただ、自分と向き合って、自分の中に蓄積された四半世紀を反芻し、その中のなにかからインスピレーションを感じて、創作に向けて力を少しだけいれてみれば、一日なんてあっという間に過ぎた。それは入院が何日続いても同じだった。ただ、そこには紙もペンも何もないので、たとえシナリオが浮かんでも空に描いて自分で楽しむくらいだった。でも、それで十分だった。

それなのに、体中から管が外されて自由に歩行できる、生活できるようになった今。

作品を発表することはおろか、形にすらできていない。思い浮かんだセリフもシナリオも絵の構図も何もかもが現実というドブに沈んで行ってしまった。

現実は私をどんどん蝕んでいく。現実という情報の波が、他人の息遣いが、響く足音が、不規則な心拍の音や生活音が、資本主義や食事や排泄までもが私の中の何かを少しづつすり減らしていく。

ICUにいた時も毎日新しい朝を迎えていたはずなのに、あの非現実感と今の途方もなく感じる現実の違いは何だ。

 

思うに、質の良い情報と最低限のストレスだけであれば、私はきっと死なずに済んだんだろう。創作だってできる余裕がわいたんだろう。現実はノイズが多すぎるように感じる。

何が救いなのか。やんなっちゃうね。