この物語はフィクションです

実在の人物、団体とは関係ありません。

酷いことばかりしている

初恋の相手を覚えているだろうか。

私の場合は幼稚園で好きになった人が初恋だった。よくある結婚のおやくそくもしてたし、不意に再会した時は自然と連絡先も交換した。久しぶりに話してもぎこちなくなることなんてなくて、でもお互い別々の道を歩んでることを実感するような、そんな初恋の相手。

その人が夢に出てきた。

ここ半年くらいの私の品のなさを実感させられるような夢だった。


半年前、私は元婚約者と別れ話をして、そのあとは男友達と遊び歩いていた。私は男好きだったし、過去女の子に手を出して痛い目も見てたから(女の子が無理だったとか、そんなことはなくて相手の女の子の環境と情緒についていけなかった)、男といるのが気楽だった。今まで行ったことない場所にも出歩いてみたりして、はじめて行ったクラブで知り合った男に告白されて付き合った。

クラブにいる男なんて遊んでる人ばかりだろうと思っていた。先に好きになったのは私だったが、自棄になっていた私は無理めな男に翻弄されたくて、顔のいい男にホイホイついて行って簡単に抱かれて、私の持てる限りの愛想を振りまいて、可愛らしく、あざとく、不安定に振る舞った。彼は頭のいい人で、気持ちや言葉を汲み取るのも上手だったし、他人の承認欲求を満たすのも上手だった。律儀に告白もしてきて、私が思っているより数倍真面目なんだろうと思った。安定した職についていたし、顔もいい、頭もいい。なぜ結婚してないのか不思議に思うくらいだ。今でもいい男だと思っている。

彼は相手が何を言って欲しいか分かるから、多少自分が思ってることと違くても、相手が喜ぶならと望む言葉をあげているのだと思う。そうやって彼は自分をすり減らして、私はその言葉に騙されたふりをして、楽しい時間を過ごした。お互い自己洗脳をかけていたようにも思うし、もしかしたらそれらの言葉は本物だったのかもしれない。本当のところはわからない。彼が(おそらく)そうだったように、私も彼が何を欲しているか分かった。でも私がそれをあげたのは最初だけだった。

私がずっと、持てる限りの愛想を振りまいて、媚びて、縋って、あなたしかいないと、そう言っていれば私たちは多分壊れようがなかったと思う。彼は私と同じくらい虚勢を張っているように見えたし、必要とされたがっているようにも見えた。自分を見ているようで少し辛かったけれど見ないふりをした。

私も相手の希望を汲んで、そう振る舞うことは得意だったし、いつもならそうしていた。そうしなかったのは、言うまでもなく元婚約者のせいだ。あなたしかいないと思っていた相手が半年前から変わっていなかったからだ。


婚約が破談になったのはいろんな理由が相まった結果だった。婚約者の借金だとか、毎日他所の女とスキスキ言いながら寝落ち通話してるだとか、私が精神疾患に陥ったこととか。渦中は地獄のような日々だったけれど、どうしても失いたくない人だった。いろいろなことがあったけど、別れるという選択肢はなかった。

別れるなんて選択肢はなかったのに、私は酷く弱かった。他所で好きな人ができたと言って、一緒に住んでいるのにもかかわらず別れ話をしたのだ。改めて文字に起こしてみても、どうしてそうなったのか、よくわからない。

彼氏ができたなら一緒に住むのをやめるべきだと思うが、そんなことはしなかったし、できなかった。結局、元婚約者との辛い日々から少しだけ逃げたかっただけだったのではないかと、いろんな人から指摘を受けた。私も否定することなんかできず、苦笑いをするだけだった。

彼氏はいつも優しかった。いつだって優しく丁寧に気を使いながら私に接してくれた。そんな関係が怖くて仕方なかった。私は付き合う前も今もずっと彼を裏切り続けているのだから。結婚適齢期の彼は案外早く結婚の話を切り出してきた。

付き合いたてのカップルが話題として、そういう話をするのは特別不自然なことではない。プロポーズをされたわけでもない。でも結婚という言葉で思い浮かぶのは、どうしても元婚約者だった。


彼氏と婚約者とこれからどう付き合っていけばいいのか。なんだかわからなくなってしまって、先週から彼氏に毎日送っていたメッセージを送るのをやめた。

以降、彼氏からの連絡はない。別れ話なんて面倒なことをしなくても済むと、安心する反面、薄情なやつだなと思った。私が死んでるとか、そういうことは心配しないのだろう。普通、連絡が途絶えても入院とか、心配しないんだろうね。幸いにも入院してません。



そんな最中、今朝の夢だ。

初恋の人が出てきた。

夢の中の私は元婚約者と付き合っているのに、初恋の人と手を繋いでいた。ダメだよなんてバカなこと言いながら。

今の私にとって初恋の人は、尊敬の対象であって、決して性的な関係を持ちたいとおもう対象ではない。夢から覚めて、自分に心底がっかりした。紆余曲折を経て、夢の中の私は撃ち殺されたのでみなさんは安心して欲しい。悪役は死んだ。


なんだか、ひどいことばかりをしている。人を傷つけてばかりだ。恋でボロボロになりたいと口癖のように言っているが、他人を恋に巻き込んではボロボロにしてばかりな気がする。今回も、前回も、その前も、付き合うに至らなかった君たちにも、ひどいことばかりをしている。

弱っている人を見つけては、君は私の特別だよとそそのかす悪癖が抜けない。期待させることを知っているのに、意味もなく過剰に愛想を振りまく癖が抜けない。嘘はついていない。君に言った特別も、あの子に言った特別も確かに私の特別だった。

割れた茶碗

お茶碗を投げて割った。そして声をあげて泣いた。

綺麗に割れたそのお茶碗は、たかがお茶碗なのだが、ただのお茶碗ではなかった。


4年前、うちには100円ショップで買った最低限の食器しかなかった。だから彼が転がり込んで来た時もグラスが1つしかなくて、しばらく冷たい飲み物を飲むのに私はマグカップを使っていた。

食事にも食器にも興味がなくて、割ってしまっても落ち込まない、洗うのが面倒になったら捨てても良いと思えるくらいのものを使っていた。

良い食器を知らなかったわけではない。祖母は質の良い食器を集めるのが好きで、縁が薄くて口あたりがよく、手に馴染む食器を使って育った。だから一人暮らしを始めたそのときに買った食器がひどくチープで、いかに荒っぽいかは使ってみてすぐに分かった。分かったが、どうでもよかった。ただ本当に無関心で、無精だったのだ。


彼と一緒に暮らし始めてから、私のコンビニ弁当生活に変化があった。申し訳程度に料理をするようになったのだ。しかしながら料理は本当に嫌だった。料理をするのが嫌なのではなく、自分が作ったものをだして、お腹を壊したらとか、まずかったらとか、不安が尽きないから自分が触った食品を他人に食べられるのが本当にイヤだった。

それでも彼がしきりに目玉焼きを作れというから、目玉焼きは作ってやれるようになった。目玉焼きの作り方は知っていたし、作れないわけでもなかった。

そんな風に躾けられて、いつのまにか出来合いの惣菜を買うよりも自分で料理をすることが多くなった。


台所に立つようになってしばらくした頃、ふと食器の重さが気になった。私の食器がそうであったように、彼の食器も100円ショップで購入したものだった。

私の向かいに座ってにこにこご飯を食べる彼を見て、ちゃんとした食器を使って欲しいと思った。きっとそのほうが美味しくご飯を食べられるだろうから。

思い立った次の日にお茶碗を2つ買ってきた。特別高価な食器ではなかったけれど、うちで初めての軽くて手に馴染む、100円じゃない食器だ。

ついでに自分のお茶碗もお揃いで買った。それまで使っていた食器は、同じ100円ショップで買ったにもかかわらずお揃いですらなかった。お揃いの食器をレジに持っていくのは、想像していた10倍照れくさかった。


だからってその日からめちゃくちゃご飯が美味しかったとか、そんなことはない。ただちょっとだけ私が彼と家族に近づいた気がして嬉しくなった、それだけだ。


そのお茶碗を投げた。特別な理由があったわけでもなく、ただ情緒が激しく揺れてしまったから投げた。

茶碗は当然割れた。あっけなく割れた。

彼が私の誕生日にハンバーグを作ってくれたりだとか、私が米を炊くのが苦手だから炊飯は彼がよくやってくれただとか、そんな思い出がフラッシュバックした。

食事の記憶は、毎日積み重なっていく。彼との日々が、あっけなく割れて終わりが来てしまったように感じて、割れた茶碗を見て泣いた。

実際、彼とは少し前に別れ話をしていた。一緒に食事をとることはあっても、そこにいるのは彼氏でも婚約者でもなくなっていた。名前のない関係の、ただ大切な人がそこにいるだけだった。割れた茶碗を見て彼も泣いた。それを見て我にかえった。


割れた茶碗は元に戻ることはない。断面で指を切ったりすると危ないから、その日のうちにゴミに出した。コンビニの袋に入った割れた茶碗を右手に、左手は彼に手をつないでもらってゴミ出しにでた。私たちの関係が割れてしまっているのか、割れてないのか、私には分からなかった。


それから毎日泣いている。

やったら付き合えないなんて嘘

26年生きてきて、たったの2人しか付き合ったことがない。

世間的にそれが多いのか少ないのかは分からなかったけれど「たったの2人」と言った通り、自分としては少ないような気がしていた。

1人目の彼氏は5年付き合った。2人目の彼氏は4年付き合った。おそらく交際期間としては長いのだと思う。

結局別れてしまったのだから、何年付き合っていたかなんてどうということはない。だけど2人の彼氏と付き合っていたことを後悔したこともなければ、2人を人間として嫌いになることもなかった。別れた直後は別として。それに2人とも当時の私が知る限りではとても尊敬できる人だった。だから交際していた過去は綺麗な思い出だし、誇らしかった。別れた後や付き合う前のことは知らないし、知る必要もない。


おこがましくも、2分の2で長期間の交際をしてきた私は「自分と付き合う人がどんな人でも私がある程度気を回せば長続きする」という根拠のない自信があった。




しかし、よく考えれば全くもってそんなことはない。交際相手を決めるときに、大分ずるいことをしてきたからだ。

初めての彼氏と数ヶ月で別れなかったのは意地だったし、そのあと交際が続いたのはたまたま相性が良かったからだ。2人目の彼氏と長続きしたのは付き合う前の曖昧な期間が長く、かつその期間でなんの問題もなかったから安心して付き合えたからだし、彼が死ぬほど優しかったからだ。私が何か努力をしたわけではないし、私に何か特別な性質があって長続きしたわけではない。


そんな過去にすがりながら生きているから、数ヶ月で付き合ったり別れたりする人たちを見るとふしだらだなあ(もしくは元気だなあ)と思う。かくいう私は、数ヶ月で付き合ったり別れたりはしないけれど、朝昼晩で違う男と関係を持つこともある。どちらがふしだらなのだろう。私の価値観で言えば前者の方が確実にふしだらなのだけど。


これも私の価値観であり、普遍的なものではないだろうが、一晩の関係乃至セフレになったときに男性は交際を望まず女性ばかり恋に落ちるという考え方が大嫌いだ。

関係を持った途端熱が冷めるのは女にもあるし、どうしようもなく抱かれたくなってわざとちょろくあることもある。嫌いじゃないしいいやつだからいい友達でセフレだけど彼氏にするのは違えなっていう人も山ほどある。というより、そんな相手ばかりだ。私に言わせてみれば、やったあと付き合いたがるのは男の方だ。でもこれも狭い世界で私が培った偏見なので普遍ではない。そもそも偏見に普遍性などない。


ところで、数ヶ月前酒の席で私に「それは相手に遊ばれているから次を探したほうがいい」と言った男がいた。見てるか。そもそも遊びは両者が同意していなければ成り立たない。知っとけ。その時の相手は今の彼氏だ。何ヶ月続くかは知らんが。

いわゆる精神病を患っている。

世間からは偏見の目で見られるし、親の理解も得られていない。親からは「お前が死んでも仕方がないと思っている」と宣言されている。製造元である親にそう言われているのだから、どうしようもない。不良品だ。

多方面を敵に回しそうだが、別にこの病を理由に何かメリットを得たことはないし、それで構って欲しいと思ったこともない。もしかしたら周りからはそう思われているかもしれないが、少なくとも僕自身はそう思ったことはないし、今のところカウンセリングでそれを指摘されたこともない。指摘されてるのは家族の機能不全と完璧主義くらいで、根本的な問題は未だ不明なままだ。家族と性格の問題が根本的なものとするかは別として。

似たような症状の人を何人か知っている。母数が少ないので、それが全てというわけではないが、すくなくとも彼らも同様にデメリットの方が大きいように感じる。「働きたいのに働けない」というのが共通した問題だと思う。

甘えたことを、と思うだろう。大丈夫。僕らもそう思っている。なんて甘えたことを言っているんだろう。なんで働けないんだろう。なんで継続して勤務ができないんだろう。僕の価値はどこへ行ってしまったのだろう。国民の義務も果たさずに、君たちが一生懸命働いているうちに、僕は家で泣き喚いて、残薬を数えて、ベランダに腰掛けて怖気付くことしかできないのだ。罵ってくれて構わない。君にはそれだけの価値があるし、僕に反論できる余地はない。

とはいえ、生きてくためには働くしかない。カウンセリングの過程で障害年金生活保護など勧められたこともあるが、基本的には働いて健常者と同じ生活をしたいのだ。僕は手帳もおりていないし、なんせ可能か不可能かという話を抜きにすれば働きたい。逆にそれが割り切れる、というか必要な時に適切に利用できる人は積極的に利用すべきだと思う。そのほうが健康で文化的な生活が送れるようになると思うし、君も僕も幸せになれると思う。誰も不幸になんてならない。

割り切れない人や制度から漏れた人は、苦しみ続けるしかない。いつか、なにか、だれかから救われることを夢見ながら徐々に落ちていく生活水準に苦しみ続けるしかない。


詐病という言葉があるらしい。

雑に言えば、仮病でなにかしらの恩恵を受けようとしてることらしい。詳しくは知らないから「らしい」としか言えない。少なくとも社会人になって詐病で得られるメリットなんてない気はする。

精神的な病はしばしば仮病だと言われる。わからないこともない。自分が理解できないものは信じられないのだろう。例えば、娘息子が揃いも揃って自殺未遂で救急搬送されていることとか、ストレスで39度の熱を出していること、働きに出られなくなってしまうことなんかは理解できないから、曖昧な「気の持ちよう」とかいう言葉で片付けてしまうのだ。

理解してくれなくてもいい。してくれなくてもいいから、それならば僕に言い放ったように医師に「こいつが死んでも仕方ないと思っている」と伝えてほしい。その上で僕は医師と話しをしたい。


カウンセリングで一般的につらいとされる出来事についてニコニコすらすら話せることがおかしいと指摘された。痛覚が鈍化しているのだと。

この辛さも早く鈍化してほしい。

卵の雑炊

かぜをひいたときのルーチンがある。

うなだれて、熱をはかって、会社に連絡し、プリンを買う。卵の雑炊をつくってたべる。

風邪をひいたときにプリンを食べないことはないし、会社に連絡しないこともない。つまりは、ほとんど平日にしか風邪をひかない。

そんな都合のいいことあるか、とも思うだろうが、毎度熱をはかっているので間違いない。仮病でないという意味合いでは。

これにはキチンとした理由がある。実のところ、これは風邪ではないのだ。

私は小学生の頃からよく知恵熱をだす子だと言われていた。それでしばしば学校も休んだ。

実際、熱はよくだした。体がぽかぽかして、頭がぼんやりする発熱。あたたかい身体で、柔らかい布団にくるまって食べる怠惰なプリンがこの上なく好きだった。

ところで、知恵熱の定義を知っているだろうか。乳児が出す熱で、原因不明の短期間で治るものらしい。私は乳児では無いが、インフルエンザばりの高熱でも翌日にはケロッとしていることがままあった。薬も飲まず、不可解な高熱が一日でひくことが何度も続いた結果、この不調は母から「知恵熱」と呼ばれることとなり、私もそれに倣った。

学校を早退するのに親の付き添いが不要になったころ、知恵熱に規則性があることに気がついた。

一定の精神的負荷がかかった時に、発熱をしやすかったのだ。コンクール前とか、やたら怖い先輩と関わらなくてはならないとか、たぶん怒られそうな時とか、全部投げ出したくなってしまったとか。

最初に気づいた時は「なんてずるい発想なんだ」「そんなことであれば熱が出ていても多少の無理は必要だ」などと考えたものだった。

しかしながら、そもそも私は休むのが下手だ。発熱の原因が多少不純なものであっても熱が出たなら休むべきだし、他人が休んでいなかったら理解できないと思う。休めよ。

最近の私は自分に甘くなった。自分に対してちゃんと「休めよ」と言えるようになった。度胸のない貧弱な精神が休むことを許さないのであればと、身体が休むための大義名分を作ってくれているのである。

今日は、うなだれて、熱をはかって、会社に連絡するところまでは済んだ。あとはプリンと卵の雑炊を食べるだけだ。

君の人生の責任を分けてくれませんか

わたしは、私の何もかもを決められない。

今までの人生で自分で決断しなかったことなど、一つもないはずなのに三十路を目前とした今でさえ、私はなにも決断できない。

実際、自分で決断したことなどほとんどなくて、親の言う「自分の人生なのだから、なにがあろうと決断には全て責任を持て」と言われてきたことが呪いとなっているだけなのだろう。他人のせいにする、という能力が欠如した結果、背負い込まなくても良いものまで背負っているだけだ。

一方で責任を持つこと、それ自体を美徳と思っている自分もいる。悪いことが起きたとき、他人のせいにしない。スマートな生き方だと思う。自分をすり減らしているとも思うが。

私は休日の過ごし方すら決められない。誰かに誘われれば外に出たかもしれない。誰にも誘われなければ、部屋で芋虫になっているだけだ。決められないから趣味もない。薦められたものはやってみる。熱中するだけの熱量がないから飽きるのも早い。続かない。

仕事は好きだ。なんの決断もいらない。目の前の仕事に忙殺されていれば時間は過ぎるし、万一決断が必要な場合は、法令遵守、一般的に、それが良いとされる方を選べば良い。しかしながら、二次会の店を選べ、なんて仕事は嫌いだった。決断ができないからだ。

恋愛ごとも比較的すきだ。全部自分のせいにしてしまえば美徳となる気がしたし、大概は盲目になっていて決断力なんてものは-普段それができる人でさえ-ほとんど機能していないのが分かるから。

ただ、恋仲になるとしばしば私の背負ってる責任モドキを分けてくれという人が現れる。これはなかなか厄介で、私の背負っているものは結局「モドキ」であるので、実のところ分け与えられるような責任は何もないのである。唯一確かに背負っているのは私の命だけだ。

私の命の責任を他人に分け与えることは、ちょっと恐ろしくて考えられない。自分の生きたいときに生きて、死にたいときに死ぬ。それができなくなることを考えるとそれだけで鳩尾のあたりがグッと苦しくなる。いつか誰かのために生きて死ぬ、なんてことをしたくなるのだろうか。考えるだけでゾッとする。その責任の在り処が、相手に行ってしまうことを考えると。私はそんな責任は生涯持ちたくないと思う。少なくとも今のところは。そんな覚悟、婚約が破談になった時にドブに捨ててしまったのだ。

この中途半端な関係を誰が許してくれるのだろうか

昨年破談した元婚約者といまだに住まいを共にしている。

このことを話すと皆、面白いくらいに顔をしかめ、眉間にしわを寄せ、どこかで口裏合わせた模範解答かのように「それは良くないよ」と言う。

原因は私にあるのはわかっている。説明が足りないのだ。そう思って「療養のため」「金銭の都合」「感情の整理のため」などと付け足すが、次の応答も皆一様に「最後はあなたが決めることだけどね……」と言いつつ顔を曇らせる。私を尊重しているようで、君たちの意見もきちんと顔色に出しているあたり、君たちは上手に世の中を渡っていけるのだろうと思う。

そもそも、別に嫌いになって別れたのではないのだ。私が他に優先したい人ができたと彼に伝えて別れることになった。それだけだ。彼が私にとって大事な人であることに変わりないし、おそらく今後それが揺らぐこともないだろう。

そうやって出来上がった中途半端な関係がいまの私たちだ。

この関係性をより複雑にさせるのが、その「あなたより優先したい人」なのだけど、これもまたややこしい。むしろややこしいままにしておいてもらった方がややこしくなかった。

しばらくのあいだ曖昧に付き合っているのかいないのか、ふわふわした関係でいたのだが、彼は律儀に告白をしてくれた。告白をされたのなんて初めてなんじゃないかと思う甘美な響きだった。もしかしたらこれまでの人生「好きです」と言われることはあっても「付き合ってください」とは言われたことはなかったかもしれない。

そんな経緯で晴れて彼氏ができた。好きな人と付き合えたのだ。人生二度目の快挙だった。初回は元婚約者だった。

しかしながら未だに元婚約者と住んでいる。そのことを伝えられていない。私の中で整理もついていない。なんの整理って、今後、誰とどう生きていくか、まだ考えられていない。

端的に言えば「私の実家に元婚約者と住んでいるのですが、先日知り合った男性に恋に落ち、めでたく恋仲になりました。」と言ったところである。確実に悪いのは私だ。

元婚約者とは性的関係がない。これは彼の人に恋に落ちる前からそうだった。具体的に伝えることがあったかなかったか記憶が曖昧だが、結局異性として別の人を選んだ理由に少なからず含まれていただろう。

私の実家には弟も住んでいる。性的関係がないとなると多少距離感の近い弟のように感じることもある。そのためか、当人としてはあまり彼氏に対する罪悪感もない。しかし彼氏が同じことをしていたら大いに失望すると思うので、皆様のリアクションも十分に理解できる。倫理観が欠如しているのは私だ。

この関係は登場人物の誰も幸せにならない。がんじがらめにしてしまったのは私だ。手放すべき時に手放せなかったし、手に入れられるものに貪欲だった結果がこれだ。でも私は手放したくもなかったし、どうしても手に入れたいと思ってしまったのだから仕方がない。

きっと彼氏がこの記事を見たら、静かに失望してどうして黙っていたのか、同じことをしたら嫌だと思わないのか聞くのではないかと思う。彼は聡明な人だから。もちろん嫌だ。でも私は、大事な人を捨てることはできなかったのだ。申し訳ない。きっとその会話の先には「聞いていればこんな関係にはならなかった」という結末が待っているだろう。そんなことは聞きたくないという私の醜い欲求がまた判断を鈍らせ、正しさを失っていく。最低だ。挙句自己嫌悪に陥って体調不良になるのだから目もあてられない。

そもそも私は簡単に人を好きになっても嫌いになれない性分なのだ。あまり酷なことを言わないでほしい。そして、私の大切な人を悲しませるようなことは誰も言わないでほしい。君たちは私たちのなにを知っているのか。少なくとも私の大切な人たちを傷つける行動をしているのは間違いなく私なのでなんの説得力もないのだけど。

この関係は誰が許してくれるのだろうか。いっそ誰にも許されずに刺されてしまったほうがいいのではないか。ひとりになるのは嫌だ。そうなるくらいなら、誰かに刺し殺して欲しいと毎日祈っている。